あのジェンキンズ氏インタビュー(2)
- 10 / 25
- 火
- 2005
昨日のエントリの続きです。どうして、こんなに翻訳までしてこの記事を載せたいのか…という事をちょっと書いときます。ただ単に興味があるという事と翻訳の練習なんですね〜。同時に英語の勉強になるんですよ、これが。考えてみると、曽我さんとジェンキンスさんのエピソードは日本のプレスでは沢山取り上げられてますから、今更私がここでエントリしても皆さんは飽きあきするかもしれませんよね。まあ、自己満足なわけでスルーしてください。
でも間違った翻訳表現がありましたら、教えて頂けると助かります。では、昨日の続きを読む方はどうぞ〜!
ジェンキンス氏は、死亡していなかったが、それを望んでいたかもしれない。当時の北朝鮮、現在の朝鮮民主主義人民共和国はジョージ・オーウェルの著書からも率直に引用されている全体主義国家であった。キム・イルソン主席の独裁政治は、完全なる肉体と精神のコントロールを国民に強いていた。
4人のアメリカ人は、いったい首都ピョンヤンで何を一日中していたのか?ジェンキンス氏は、キム・イルソン主席の教えを学習させられていたと語る。
北朝鮮の内政職員達は、7年間一日8時間もの間。ジェンキンス氏らアメリカ人に主席の文書学習を強制してた者を「リーダー達」と呼んでいた。ジェンキンス氏らは、理解できない朝鮮語でその文書を暗記させられたのだ。そして今、その言葉は傷跡のように記憶の中で鮮明に残っている。
その文書をインタビュアーのペリーに暗誦してみせてるジェンキンス氏は、強張った表情を見せた。「言葉では、北朝鮮への思いを表す事は出来ない。それは、いやがらせであり大変な生活だったからだ。」
ある時、ジェンキンス氏は国が指名した女性と月に二回性交をする事を課せられた。
「その『リーダー達』はその女性にいつ性交するのか殆ど指示していたのだ。そして一度ある『リーダー達』の一人と大喧嘩をした。『彼女と寝たければ、そして彼女も私と寝たければ、私達は寝る。あなたには関係ないことだ。月に二度じゃない!』と言ったのだ。」とジェンキンス氏はその時の争いを思い出しながら語った。
ジェンキンス氏は、リーダーに反発したため酷く殴られたのだった。インタビュアーのペリーにジェンキンス氏は、その時受けた傷を見せた。その傷は、前歯が唇を貫通して出来たものだ。
しかし、その時受けた傷は誰かがジェンキンス氏の腕の刺青(ライフル銃の十字型絵柄の下にある)「U.S.army (米軍)」という文字に気づいた時ほど酷くはなかった。
ジェンキンス氏が言うに、北朝鮮の者達は彼を押し倒し、その刺青を麻酔無しで鋏で切り裂いたのだ。「彼らは、麻酔は戦場のためのものだと私に言った。」ジェンキンス氏はこう言葉を続けた。「あれは、地獄だ。」
ジェンキンスは、自分はまだ米軍にいるのだと信じたかったが、北朝鮮はその言葉を肉体から剥ぎ取ったのだ。
「彼のそこでの生活がいかに酷かったかとあなた方が理解し始めている内容は、克明な詳細に見る事ができる。」とTime誌の東京支局長であり、ジェンキンスと共同著書を出版したジム・フレデリック氏は語っている。
その著書で語られてる多くは、広がりを見せる北方の貧困状況の中で生き残りに苦労したジェンキンスによる描写が盛り込まれてるのだ。
「彼は暖房すら持ってなかった。暖房があったとしても、暖房に火を入れなければならないのは皆承知である。彼はアパートに住んでいたのだが、トイレは水が流れなかったのだ。手で水を流さなくてはならなかった。それは、実に浄化槽があったわけではなく、ただパイプがあっただけ。その外部に繋がるパイプはトイレの後ろにあり、溝鼠がそこから上がってこれるようになっていた。」とフレデリック氏は語る。
「殆ど電力はなかった。電力が無い時は、水も出ない。おおよそ100メートルは井戸から丘をあがって水を運んで来なければならなかった。その井戸も掘らなければならなかった。」とジェンキンス氏は語る。
アメリカ人は、ほとんどの北朝鮮の国民よりは待遇が良かった。なぜなら、彼らは国に使われていたからだ。政治宣伝用のチラシでポーズをさせられたり、スパイ養成用に士官候補生達に英語教育の強制をさせられたりとだ。
ジェンキンス氏は、映画出演するように命令された。彼が出演し悪徳なドクターケルトンを演じた映画は、彼の失踪から32年後に彼の家族があるリポーターを通してコピーテープとして受けとっていたのだ。
「彼の姿をその映画で見たとき、何を思い言葉にしましたか?」とインタビュアーのペリーはジェンキンス氏の姉妹であるパット・ハレルさんに尋ねた。
「あれは、この長い歳月で初めて彼が生存しているという希望の光でした。彼は元気そうでした。」とパット・ハレルさんは答えた。
一方北朝鮮でも、ジェンキンス氏に希望の光がやって来たのだ。1980年、15年間の孤独な日々の後、彼を監視してきた「リーダー」達は、彼のもとへ21歳になる一人の日本女性を連れて来たのだ。「あの状況をこう置き換えたい。彼女を一度見上げた。そして、彼女を手放さなかった。」とジェンキンス氏は語った。
彼女の名は、曽我ひとみさん。近代史で最も奇怪な工作員陰謀のひとつで、拉致事件の被害者のひとりであった。
北朝鮮は、普通の一般人を拉致してはその被害者に強制的に北朝鮮スパイ工作人に日本語を教えさせていたのだ。1978年、ひとみさんは日本の佐渡島の路上で工作員に拉致されたのだった。
彼女はボートに連れ込まれ姿を消した。日本では誰もどうして彼女が姿を消したのか、どのようにそうなったのか知らなかった。
曽我さんとジェンキンス氏は、全く違った世界から来た者同士であったが、二人には共通点があったとジェンキンスは言う。「彼女は、囚人だった。私も囚人だった。私達は、同じだった。私達は共に北朝鮮を憎んでいた。そう、それがたった一つの共通点と言えるものだった。」
数週間以内に二人は結婚し、自分達が軽蔑する国によって結婚式典が執り行われた。しかし、二人の結婚生活は本当の結婚生活に変わっていったとジェンキンス氏は語る。「私達の間には全く隠し事は無かった。彼女がする事全て私は知っていた。そして私がする事全てを彼女に話した。」
そして北朝鮮で毎晩床に就く時、彼女におやすみと朝鮮語ではなく日本語で言った。ジェンキンスは、こう言葉を続けた。「彼女に彼女が朝鮮人ではなく日本人である事を覚えていて欲しかったからそうしたのだ。彼女は、朝鮮へ義務があったのではない。彼女は、日本人だ。そして彼女も私に毎晩英語で話した。状況がどんなに困難であろうと、私達はいつもひとつになっていた。」
二人は、22年間ずっと連れ添い、ミカさんとブリンダさんという子供達を育てた。そして2002年に思いがけない事が起った。
(次回エントリに続く)
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